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K'sファイルからのお知らせ

お知らせ: 11 月 02 日、木曜日の K's ファイル NO.73 は、 日本独自の会社・企業スポーツと文化 に付いて述べさせていただきます。 第一弾 忘れられた企業スポーツとその価値 「企業スポーツ無くして東京五輪は成立しない」 をお送りします。   文責:河田弘道 スポーツ・アドミニストレイター スポーツ特使( Emissary of the SPORTS )

K’sファイルNO.72:2018秋読売劇場開演  無断転載禁止

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K’s ファイル NO.72 : 2018 秋読売劇場開演   無断転載禁止   東京読売ジャイアンツの最高経営者 ( 略: CEO)   注: NO.72 は、読者の皆様からのリクエスト「筆者が TYG の CEO なら球団の現状現実を どう再建するか」についてお答えしたいと思います。結論から申し上げますと、目先の監督、スタッフの首のすげ替え形式的なものではなく、構造的問題の改善、改革の必要性から先ず手を付けたいと思います。差し障りの無い範囲内で述べさせて頂きますので、悪しからずご笑読頂ければ幸いです。   1.球団組織の構造的な問題を先ずオーガナイズすべき 先ず、球団最高経営者として今与えられた時間内で最初に行うべきことは、経営部門のアゼンダ(取り組むべき課題)は別にして、商品を生産する編成部門の立て直しを如何に迅速且つ将来を見据えたシナリオにできるか、それを描く事です。 その手始めとして、過去5年間の球団編成部門に関わる各部署の担当責任者の業務報告書の存在の有無を確認(筆者の経験からこのような物は球団には皆無と推測)、あるのであれば各責任者に各年の要旨をまとめて報告をさせることです。無いのであれば、過去3シーズン分を各担当責任者に業務として、書かせ提出させる事です。報告書の書き方、統一されたフォーマットを指導する。 フィールド部門に関しては、テイーム、個々の選手、監督、スタッフに関する編成部門の現場責任者から報告書の有無の確認や、スカウト部門、国際部門、 FA 移籍、戦略、戦術の確認と、人材の適性、故障者の経過リスト、医療体制、等の整理と報告書の作成を指示する事が重要です。そして、それらの資料を短時間で提出させ、プライオリテイー(順番)を決め、各年のスタッツとの照合作業及び精査と検証を図ることです。これにより何処に欠陥があったのかが一目瞭然です。口頭での報告では、責任の所在がないので“ NO ”です。 同時に並行して行わなければならないことは、現在の球団、テイームの再建に関わる指針を明確にすること。これが最重要課題であると思います。 誰を監督、コーチングスタッフに招聘するか否かは二次的な問題なのです。人事に入る前に 2 週間もあれば新プロゼクトに必要な最低限度の準備

K'sファイルNO.71:G高橋由伸監督辞任に思う 無断転載禁止

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K's ファイル NO.71 : G 高橋由伸監督辞任に思う 無断転載禁止          恒例の読売劇場開演の季節 若き指揮官のプロ野球人生の始まり、そして辞任   先ず初めに 筆者は、 1997 年 12 月 31 日に東京読売巨人軍(略: TYG )を退任致しました。実質的には、確か 1997 年 9 月 18 日の読売新聞社水上勉会長、渡辺恒雄オーナー、長嶋茂雄監督兼編成統括常務取締役の紀尾井町(日本料理店)での三者会談翌日と記憶しております(本件に付きましては、 G ファイル、長嶋茂雄と黒衣の参謀、文芸春秋社、武田頼政著に掲載)。小職が退任前の 97 年 11 月 4 日に逆指名権を使って入団した選手は、高橋由伸選手(慶応大学)でした。そして、翌 1998 年 4 月に彼はプロデビューとなった次第です。   ビジョンなき球団の犠牲者 高橋由伸選手のプロ野球人生の始まりは、余りにも悲劇的と表現するよりは、むしろ異常な記者会見であったというのが適切かも知れません。 本来プロ野球選手の入団会見は、おめでたい祝いの席の筈です。 しかしそれが、物静かで品のよい高橋選手は、顔色は優れず、頬を少し腫らし、身体は震え、目を潤ませながら怒りとも思える感情で会見を始めたのです。それもそのはず、会見に臨む前日、前夜、そして当日の朝まで某ホテルの一室で父親と激しい葛藤を繰り広げたのが原因だったようです。野球ファンの皆様は、当然入団したかったヤクルトスワローズ球団にお世話になる選手だと想像されていたと思います。 当時、筆者は同年 12 月 31 日で TYG との契約期限が終了するため、同年のドラフト、逆指名、等に関わらず静観していた時期でした。よって、私の TYG 在任の最後の年に、入れ替わりで彼は入団したのです。 高橋選手が入団するまでの経緯、人間関係、出来事は、ある程度理解 していましたので、今後、起きるかもしれない出来事に対しこの球団の誰が彼を守ってあげられるのだろうか、と今後を予測しながら後ろ髪を引かれる思いで退任致した事を記憶しています。 プロ野球選手としての最後は、これまた自分の意思では何ともならない球団、親会社の論理で強制的な引