Kファイル╱スポーツドクトリンkファイルNO.223:河田弘道のスポーツ・アドミニストレイション実践編(Ⅲ)スポーツとマスメディアは不可欠な関係
Kファイル╱スポーツドクトリンkファイルNO.223:河田弘道のスポーツ・アドミニストレイション実践編(Ⅲ)スポーツとマスメディアは不可欠な関係
スポーツ・アドミニストレイタ-
スポーツ・アドミニストレイションの基軸は“Justice正義&Fairness公正”
日本にスポーツ・アドミニストレイション論の必要性を紹介
日米で実践してきたスポーツ・アドミニストレイターの先駆者
(プロフィールは別途ご検索下さい)
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伝言版 無断転載禁止
筆者から大谷翔平選手、ご家族の皆様へ
前略
初めまして、私は河田弘道と申します。小生のプロフィール、等に付きましては、本SNSを検索して頂きますとご笑読して頂けるかと思います。本日は、毎月第二、第四木曜日に掲載致しております“河田弘道のスポーツBLOG”の冒頭を伝言板として活用させて頂きました。
この程は、大谷家に於かれましては大変災難な出来事に見舞われまして心よりお見舞い申し上げます。本件は、3月21日にMLB開幕戦の韓国シリーズ中マスメディアを通して公開されました事件であります。しかし、事件告知に際しては、本来大谷翔平選手をサポートするべきエイゼント(同選手の代理人)は、終始その姿は見せませんでした。此のことからも私は、スポーツ・アドミニストレイターとして同選手のプロとしての代理人の行動に疑念を抱かざるを得ませんでした。即ち通常代理人たるは、大谷翔平選手に問題が生じた場合本人に代わって表に出て事に当たる事を職責、職務とするのです。筆者は、代理人及び同氏の所属代理店の業務怠慢を今日迄指摘させて参っております。同代理人と大谷選手との間の契約内容は、知る由もありませんのでご容赦ください。
私は、日米に於いてスポーツ・アドミニストレイションを専門としてスポーツ・アドミニストレイターの立場で活動して参りました。このことからスポーツ界のこのような出来事は、常に経験して参って来ております。小生のキャリアは、プロフィールをご笑読頂ければ幸いです。もう既に起きてしまった事に、タラ、レバは、通用致しません。大谷選手が此れからどうこの事件を通してポジティブな本来の姿で活躍し、野球界、スポーツ界、一般社会に於いて長く愛されリスペクトされる選手、人として理解、貢献されるかが大事だと確信しております。
付きましては、既に公開しています“河田弘道のスポーツBLOG”をご笑読頂ければ、何か新たな専門的な重要なポイントをご参考にして頂ければ幸いです。
私の経験則から申し添えますと、現在既にそうされているかと思われますが、今後大谷選手は、業界に精通した誠実で信頼できる弁護士を持たれることが先決です。弁護士及び弁護士事務所の選定は、非常に難しい問題でもあります。また、盗まれてしまった莫大なお金は、それぞれ「故意か過失」は司法が判断しますが、犯罪を犯した個人、及びその関係者達と管理不行き届きであった代理店、銀行、等に対して損害賠償請求をしてしかるべきかと思われます。そこから取り戻したお金は、大谷選手及び世界のベースボール発展の為にも“
“大谷翔平ベースボール財団(基金)”
を日米に設立されて、日米の子供達のスポーツ、野球の育成の為の基金として手を差し伸べられる事をご提案させて頂きます。
これに対して、多くの善意の心を持たれた日米の方々は、喜んでお手伝いして下さると確信致します。日米の野球、スポーツ大好きな子供達は、人類の宝です。
しかし、プレイできる環境の子供達は限られています。父母達は、我が子に野球のおもしろさ、楽しさを教えたくともその環境を与えて挙げられない子供達に手を差し伸べてあげて欲しく思う次第です。大谷選手の野球への情熱、スポーツへの愛情の証としてお勧めさせてください。大谷選手の活躍で得たお金のほんのわずかな一部は、身近な日米の恵まれない環境の子供達に還元して挙げて頂き、未来の大谷翔平選手を夢見るこれからの子供達の育成とその担い手であります指導者の資質の向上に寄与して頂きたく祈念する次第です。
私は、自身の専門職のスポーツ・アドミニストレイターとしての視点で述べさせて頂きますと、この度の事件は、当初大谷選手に関わる方々の身体検査と資質を最初に見極められていなかった事に起因していると思われます。Team大谷を再構築する為には、必要不可欠な最小精鋭の誠実な信頼に足る人間が必要です。此れからは、そのような人材に大谷選手が恵まれます事を心より願っております。
大谷選手と水原一平被告の関連記事は、“河田弘道のスポーツBLOG”NO.219、220、221、223と4回に渡り掲載させて頂きました。本ブログを検索して頂きましたら、ご笑読できます。
本メッセージが大谷選手の耳に届きます事を願っております。もしご両親がこの便りをご笑読され、翔平さんにも目を通された方が賢明と判断された場合は、是非そうして挙げて下されば幸いです。専門的なマネージメント業務が本ブログシリーズを通して学べるかと思います。最後にご家族の皆様のご健康とご活躍を心より祈念致しております。それでは、失礼致します。
ご参考までに、
米国では、子供達のスポーツ活動はシーズン制で幼児期から行われています。
その活動は、個々の自治体で各スポーツはlittleリーグを形成し、各クラブ運営、指導管理はバランティアを中心に行われています。しかし、入会時には、最小限度の人件費、用具、ユニフォーム、他諸経費が父母の負担となります。しかし、興味あるやりたい子供達が加入、入会したくとも父母の負担が叶わず、現実は、我慢している子供達を多く見かけます。この様な子供達に対して、手を差し伸べる制度として、父母と子供の入会希望申請書を各自治体の窓口で受け付けています。
その結果として各自治体は、親子面接と指導者の推薦を基本に審査し、合格した子供は自治体が負担するシステムが構築されています。日本では、このような各スポーツの運営、指導、管理システムが子供達の為に制度化なされていますでしょうか。 草々
文責:河田弘道
目次
伝言板
筆者から大谷翔平選手、ご家族の皆様へ
Ⅰ. スポーツとマスメディアの関係とその歩み
スポーツとマスメディアのインターラクション
1.スポーツとメディアの幕開け
■新聞時代~
2.ラ・テの創生期と全盛期
■ラジオ放送開始~
■テレビ放送開始~
3.スポーツマスメディアの動向
■テレビバブルの終演
Ⅱ. 広告代理店は世界のスポーツとマスメディアを席巻(せっけん)
広告代理店とマスメディアの必要性
■大衆消費社会の出現
■市場経済の構造的な変化の始り
■大衆消費社会の出現
■市場経済の構造的な変化の始り
まとめ
2024年5月23日 木曜日 公開
Kファイル╱スポーツドクトリンkファイルNO.223:河田弘道のスポーツ・アドミニストレイション実践編(Ⅲ)スポーツとマスメディアは不可欠な関係
無断転載禁止 毎月第二、第四木曜日掲載
スポーツとマスメディアのインターラクション
元来インターラクション(interaction)とは、相互作用とか双方向の行為、交流を意味するカタカタEnglishとして今日我が国に於いても用いられている用語です。読者の皆様もマスメディアの報道でよく耳慣れしていると思われます。
今日のスポーツ界は、マスメディア(媒体)無くしては何も起きない。メディア界は、スポーツ無くしては物足りない。このような現況から、毎日世界中のマスメディアは、スポーツを配信し、スポーツは世界中のマスメデイアによって届けられているのです。これは、まさしくスポーツとメディアが相互の必要性を認め合った双方無くてはならない間柄を構築しているのです。これを称して、スポーツとメディアのインターラクションと称している所以です。
この事は、スポーツが大きな社会性を仲介役として持つようになった証です。また、新聞、ラジオ、テレビ、衛星放送、インターネット、多機能情報機器等は、多様化したスポーツをマスメディアを通して我々を(が)今日固い絆で結びつけ、相互に影響し合って理想的な関係を構築しようと日々進化しているのです。
1.スポーツとマスメディアの幕開け
■新聞時代~
メデイアの創生期は、新聞が先ず最初にスポーツを活字で紹介したのです。我が国に於いては、明治中期ごろからスポーツ関係の報道を手がけるようになり、後期にさしかかったころから新聞社自らが各種スポーツイベントを主催、協賛、後援するようになったのです。この歴史は、今日も尚継承していますのが日本のスポーツイベントの開催に際しての主催、共催、後援、等として名を残している次第です。
明治時代、1868~1912年迄当時初期のスポーツ報道は、外国人相手の試合で活躍した内容が主に取り扱われていたことが史実に残されています。その報道の仕方としては、あるスポーツが外国に「修行」に出かけたとか、そして現地で活躍したとかの記事が主な話題の内容であったようです。また、当時は、外国スポーツを日本流にアレンジしなおし和洋折衷的な要素が強く、しかし、スポ-ツ記事を通して社会に与えた影響は大きかった様子が伺えます。
1901年には、丁度このころに時事新報社(じじしんぽう)により東京上野不忍池12時間競争を皮切りに、各社が競い合ってスポーツの主催、後援を行なうようになったのです。現在の新聞社主催、協賛、後援のマラソン大会、及びスポーツイベントは、その歴史の足跡で日本のスポーツイベント開催の伝統的な特徴でもあります。
時事新報は、1882年(明治15年)3月1日、福沢諭吉の手により創刊。その後、慶應義塾大学及びその出身者が全面協力して運営された様子です。戦前の五大新聞の一つ。現在も存続しています。
注:時事新報社は、現在の時事通信社とは無関係です。
このように新聞社がスポーツの普及と発展に大きく寄与したといえるが、逆にスポーツが新聞社の新聞の拡販発行部数を拡大する役割を果したのもまた事実です。しかし、今日では、新聞の購読者の激減に寄りスポーツが新聞の拡販事業に役立たなくなった現実から、過去の新聞の威力が風前の灯火と相成り、死活問題になっていることは読者の皆様もご承知の通りです。しかし、近年は、このようなマスメディアがスポーツイベントを主催、協賛、後援、する事による弊害として、選手の国際大会への選考基準が不透明になったり、スポーツの報道が誠実に取り扱われなかったり、等スポーツを企業の利害、利権の構造に巻き込んでしまった現実にはその功罪の罪といわざるを得ないのも悲しい現実がある事を忘れてはなりません。
2.ラ・テの創生期と全盛期
■ラジオ放送開始~
1925年にラジオ放送が開始されましたが同時にスポーツ放送も開始されたのです。ラジオが与えたスポーツへの大きな影響は、それまでの新聞が過去の記録しか伝達、報道できなかったのに比べると、ラジオは今ここで起きていることを生で聴衆に伝える事が出来たのは画期的な進歩であったのです。
■テレビ放送開始~
1951年には、それまでラジオの画期的な進歩の恩恵を受けてきたのが過去の出来事かのように生の音声に加えて生の映像で視聴できるようになったのです。これがテレビの出現でした。1951年に始った試験放送を経て、1953年より放送が開始されたのです。しかし、当時は個人の家庭でテレビを購入する生活的な余裕もなく、多くの視聴者達は街頭に設置されたテレビに物珍しそうに集まり見入ったのです。筆者は、当時小学生時代で田舎で育ちました関係から個人の家にテレビのアンテナが立っているなど略見当たりませんでした。唯一テレビが在ったのは、小学校の図書室に在りました視聴覚用のテレビを宿直の先生にお願いして夜遅くまで視聴させて頂いていた事が鮮明に蘇ります。
特に限られた番組の中で、力道山のプロレス中継は、まさに高度成長に向う一般市民に強い勇気と希望のみならず、光り輝く未来に夢と希望を与えてくれたと言っても過言ではありませんでした。1958年には、受像機台数が100万台を突破し、1968年になると2000万台 (普及率88.1%)に達しました。
1964年の東京オリンピックでは、世界で初めて衛生生中継で放送されました。このように衛星放送という革命から世界中の人達は、同時にスポーツイベントを視聴できるという恩恵を受け、衛星放送の幕開けともなったのです。
1970年代に入るとテレビ受像機が各家庭に普及して、テレビとスポーツとの間に新しい関係としてスポーツ・ビジネスという言葉を耳にするようになりました。それは、力道山の空手チョップに始まり、プロ野球、オリンピックと多くの人々がスポーツに触れる機会が多くなり、スポーツをマスメディアで視聴するようになったのです。その為にスポーツに対する価値は、急激に向上して需要と供給の度合いが急激に高まったのです。このころから既にスポーツを中継する為の権利=TV.Right(ライツ、TV放映権)なるものが発生しました。
1960年のローマオリンピック大会では、初めて放送権料が発生して、当時NHKは、5万ドルをアメリカのCBSは50万ドルを支払ったと記録されています。1984年のロスアンゼルス・オリンピック大会では、このスポーツとメディアの融合に一大変革をもたらしたのは言うまでもないことでした。その後、今日に於いては、インターネットの普及と共に高度な各種携帯電話機器からスマホへと爆発的な普及を起こし、我々は何時でも、何処でも好きな時に好きな情報を入手する時代となっています。
このようにスポーツとメディアの関係は、今後止まるところを知らない勢いで前進し続けていますが、同時にスポーツとメデイアの信頼関係の再構築の必要性も重要なテーマとなってきているのも事実です。
この時期を境に各広告代理店内に於ける花形部署は、ラ・テ局(ラジオ・テレビ局)が業界に於いて最大の権力を有し、社内外を席巻し肩で風切る態度で社内外を闊歩していた時代でした。このような時代は、40年、50年昔の話でありました。
■テレビバブルの終演
1995年を境に衛星放送時代に突入して行く。スポーツに於いては、日本サッカー界の右肩上がりを背にヨーロッパサッカーが衛生放送により、またそれと前後して日本人選手の海外移籍(中田選手)にともないイタリア、スペインサッカー、英国サッカーが注目を浴びるようになりました。
また、丁度このサッカー界と前後して衛星放送を通じて米国の競技スポーツがマスメディアを通してのみならず、イベントとして我が国に直接大量に入ってきだしたのもこのバブル期の特徴とも言えます。
注:バブル期とは?(当時の日本企業による国外不動産買い漁りの象徴となった。 バブル景気(英: bubble boom)は、景気動向指数(CI)上は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象とされる。)
米国型競技スポーツの流入の大きな要因の一つは、95年に野茂英雄投手がドジャース入りしその後、爆発的な野茂フィーバーを起こしたことを忘れてはならない。それが今日のイチロー、松井、松坂選手、ダルビッシュ投手、田中投手、大谷翔平投手、他に継承されてきているのは認めざるを得ない現象です。
それまでは、米国から日本への競技スポーツとしてMLBのオールスター戦、NCAA(全米大学競技スポーツ協会)公式戦としてBYU対UNLV戦を皮切りに、その後フットボール(ミラージュボールとして)、バスケットボール、そしてプロ競技スポーツでは、NFLフットボ-ルオールスターゲーム、公式戦、NBAバスケットボール・オールスター戦、公式戦、等が毎年日本で開催されていたのです。しかし、これらもバブル崩壊と共にジャパンマネーが底をつきこのような大型のスポーツイベントの開催が日本で開催出来なくなったのです。
これらスポーツイベントの開催と入れ替わりに、衛星放送の飛躍的な発展と有料テレビの開設に伴い衛星放送に於ける多チャンネル時代に突入しているのが現実です。そして今日では、テレビマスメディアからインターネットによるマスメディア時代に大きく舵が切られたのです。これがスポーツマスメディアの急激な変化と現実と史実なのです。
Ⅱ. 広告代理店は世界のスポーツとマスメディアを席巻(せっけん)
広告代理店とマスメディアの必要性
1970年代前半から中期にかけてこの時期からテレビの普及率が世界中で著しく伸び、第一次産業(生産業)が安定して第二次産業(大量生産化、オートメイション化)も向上し第三次産業(消費化・サービス業)である消費者へのサービスに移行して行く時期と合致するのでありました。今日のスポーツビジネスが巨大化するに至った大きな土台は、この時期が背景となっていると考えられます。
■大衆消費社会の出現
1970年代をふりかえると世界の先進国といわれる大国では、生産効率を高める為に生産工程をオートメイション化へと機械が改良導入されそれによって大量生産が可能になった時期をむかえたのです。此れにともない先進国では、物が大量に市場(マーケット)に出回ることになったのです。大量生産は、生産の近代化が大前提であったので消費においても大衆消費社会へといっきに移行した時期でした。
このような大量生産により生産能力が消費を上回るというそれまで考えられなかった市場状況が現実となったのです。このようなことから当然買い手は、売り手に押し付けられて物を購入するのでなく自らの意思で購入の選択ができる環境と状況ができ上がったのです。この状況は、生産者側が品物についての情報を消費者側に与えることで消費を拡大して行かなければ競争に勝てないという状況となったのです。市場は、このような状況、環境から消費者に市場で自由に選択してもらう為の方法として確立されたのである。
小職は、丁度この時期米国の大学に勤務と同時に日本の西武・国土計画の野球事業と二足の草鞋を履き、日米間を年間24、5回往復していました時代でした。この時代は、気力、体力があった当時が懐かしい限りです。
■市場経済の構造的な変化に伴うスポーツの活用
上記のような市場〔マーケット〕の背景と共に市場を拡大、充実することは、生産者側の生産の向上と市場の安定と価格の安定につながり、消費者側にとっては必要な品物がいつでもどこでも安定した価格で購入できる相互作用(インタラクション)を構築していったのです。しかし、ここで生産者と消費者だけでは、購買力に限界が出始めその仲介役の形で双方に情報を伝達提供する新しいタイプの「広告代理店」が台頭してきたのです。これも70年代の大きな特徴の1つでありマーケティング業界に多大な革命を引き起こした次第です。
ここで広告代理店が最初に目を付けたのが、丁度オリンピック、アスリートがアマチュア解禁によりプロ化となった事から、競技スポーツ大会、選手を製品、商品と抱き合わせた宣伝、広告に活用を始めた次第です。
まとめ
スポーツとTV、マスメディア媒体が急激に融合し合い、発展するに至るにつれて、筆者は、当時より今日迄どれ程のスポーツ・マスメディア関係者達が「スポーツとは何か」たる定義を理解しているのか甚だ疑念を抱いて参りました。その理由は、今日も尚、スポーツ・マスメディアの報道がスポーツの本質を逸脱した報道、記事が多く、視聴者にも読者にもその伝えるべき真意が伝わっていない気がしてならないのです。
このような日本経済の急激な変化に対して、広告代理店とTV、マスメディアの動向は、切っても切れない関係へと発展して参ったのです。これに伴いTV、マスメディアは、広告代理店無くしては営業活動が支えきれない事態に成って来たのです。
その最大の根拠は、バルブ経済時に巨大なスポーツイベントを日本国内に呼び込み、丸抱えをして各TV局は独自にメインイベントを抱えて競い合っていたのです。その後、バブル崩壊と共にその抱えていた巨大イベントの制作、編成、放映権料の負担が広告代理店からのスポンサー料金では賄えなくなったのでスポーツイベントの放映が段々と姿を消して行ったのです。
今日では、嘗てのドル箱であったプロ野球の巨人戦は、長年広告代理店の電通の買い切り商品でした。しかし、既に20数年前に電通は、独占販売権を放棄したがために巨人戦の中継が地上波から消えてしまった理由がここにあるのです。
小職が在籍していました長嶋ジャイアンツ時代は、年間の巨人軍の視聴率平均は24%に達していた最高の時代でした。もし今巨人戦を地上波で放映すると視聴率は、一桁の中ほどまで落ち、此れではテレビ中継時のCMを購入するスポンサーが居なくなったというメカニズムなのです。小職は、強運にも最高の時に在籍しメイクミラクルとメイクドラマを完結できました事に心より感謝致しております。
文責:河田弘道
スポーツ・アドミニストレイター
スポーツ特使(Emissary of the Sports)
紹介:Gファイル(長嶋茂雄と黒衣の参謀)文芸春秋社 著 武田頼政 本著は、2006年10月発売、翌年完売の為現在はAmazonで中古オークションで入 手可能。河田弘道の西武・国土計画、東京読売巨人軍での激闘の日々のドキュメントです。登場人物は、全て実名です。
Kファイル╱スポーツドクトリン、KファイルNews Comment by Hiromichi Kawada
お知らせ:この度のKファイルNO.223は、大谷選手へ伝言板を通して提案をさせていただきました。本BLOGを読まれた読者の中から大谷選手、ご家族にお知らせ頂けることを祈念しています。
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