Kファイル・スポーツドクトリンNO.318:体育教員が競技スポーツ指導を兼務するは盾と矛の関係
Kファイル・スポーツドクトリンNO.318:体育教員が競技スポーツ指導を兼務するは盾と矛の関係
無断転載禁止 2025年11月27日 木曜日
河田弘道
スポーツ・アドミニストレイタ-
スポーツ・アドミニストレイションの基軸は“Justice正義&Fairness
日本にスポーツ・アドミニストレイション論の必要性を紹介
日米で実践してきたスポーツ・アドミニストレイターの先駆者
(プロフィールは別途ご検索下さい)
目次
Kファイル・スポーツドクトリンNO.318:体育教員が競技スポーツ指導を兼務するは盾と矛の関係
序文
Ⅰ.混同されている体育とスポーツ
■教育機関に於ける体育とは
■教育科目の一つとしての体育
■体育教員資格者とは
Ⅱ.混同されている体育、スポーツと競技スポーツ
■混同される所以は此処にあり
まとめ
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序文
最短の秋を終えいきなり真冬日そして時に小春日和を迎えている日本各地、Kファイルの読者の皆様は自然の摂理を如何に受け入れられていますか。政界は、我が国初の女性総理大臣が選出されました。これに伴い多種多様なハレイションを引き起こされているようです。
著者は、この新総理大臣により平和がごく普通として身に着けてしまった国民、社会に対して国家、国民、社会の足元に危機が迫っている事を身を持って知らしめて下さったその勇気と行動力に敬服の念を禁じえません。近年の内閣総理大臣諸氏は、本件に関して常に腰が引け判断力のみならず勇気と行動力の欠如が最大の弱点でもあったように思われました。この国の危機に対して特に若い世代の方々には、目を覚ませて頂きたく思う次第です。
我々日本国民は、TV、マスメディアの報道により情報を得て、事の次第を捉え認識を新たにしています。しかし、このTV、マスメディアの情報は、どれほどの「Justice正義とFairness公正」を国民、社会に公開されているのか、今一度検証が必要かと思うのは著者だけでしょうか。自民党の統一教会との長年の癒着は、政治家、マスメディアの隠蔽体質により個人の権利と人生を奪い取られた青年の過激な行動により国民の知るところとなりました。日本のマスメディアは、ジャーナリストとして戦後国民、社会に何を提供して来たのでしょうか。
高市氏の勇気と行動により、隣国が牙をむいて参っている事は、我々国民、社会の知るところであります。一日も早く、日本国が真の主権を持つことで国家、国民の領土の保全、国民の生命の安全を担保して頂きたいと願うのは我々日本国民の願いではないのでしょうか。その為にも日本国政府は、自らの姿勢を健全化することが先ず先決のように思えてなりません。我が国は、議会制民主主義を堅持しています。しかし、この議会を運営、管理する国会議員達は、果たして国民の代表と言えるのでしょうか。今日の国会議員を選出する選挙民達は、本当に日本国を健全な国家に導く選挙民なのでしょうか。もしそうであるならば、自民党の統一教会の代表格の衆議員を八王子選挙区の民は、国政選挙で選んだりはされないのでないでしょうか。
我々国民一人一人には、国会議員を選ぶに当たり重大な責任を負わされている事を忘れてはなりません。内閣総理大臣は、我々国民が国会議員として選出した議員達の利害と利権で投票がなされているように思えるのは著者だけでしょうか。読者の皆様は、勇気と行動力を持って議論の輪に入られては如何でしょうか。
この度のKファイルNO.318は、少しお堅い話題になりましたが、深い霧の中に消え行く「体育」という言葉の本質がスポーツという言葉に置き換えられていく姿を鑑み、今一度、一般のKファイル読者にシンプル且つ分かりやすくお伝えすることが出来ますればとの思いで自ら老体に鞭打ちながらPCのキーを叩いた次第です。読者の皆様の理解と認識に少しでもお役に立てますれば幸いです。
■教育機関に於ける体育とは
体育とは、「人の心と身体を健全に育てる」事を総称した言葉と理解します。
人の心と心身を健全に育てることを目的とした学問を体育学と理解します。
体育学は、多くの心身を形成する専門分野により構成されています。
体育の本質は、人の身体に運動を加味する事で健康を維持向上する事です。
教育機関に於ける体育は、算数、理科、数学、社会、英語、国語の科目、等と同列であると理解、認識されることが大切です。読者の皆様は、この様な説明が分かりやすいのではないでしょうか。中でも小学校、中学、高校、大学と進むにつれて我が国の体育、スポーツは、この基本的な理解と認識が非常に曖昧になり指導者も受講する子供達も分かっているようで分からない、混乱している状態が我が国の体育教育の現場とその実態のように思えてならないのは著者だけでしょうか。
特に高校では、体育の科目、授業を疎かにして大学受験に必要な他の科目に置き換えるなどの教育機関らしからぬ学校が近年多くなっている事も事実であります。大学教育に於いては、体育科目は選択となっている大学が大半のようです。これでは、日本の教育現場から「体育」という文字も実態も消えてゆくのは時間の問題のように思えてなりません。
これに比べて米国の大学では、全学生に4年間体育教育の一環としてフィットネスの授業を毎学期必ず履修を義務付けている大学教育機関もあることをご紹介します。これは、この総合大学がいかに学生達の健康を教育の基軸として4年間フィジカルフィットネス授業を履修させることにより、卒業後の生涯スポーツと健康の維持、向上に力を注ぎ、位置付けているかが明確であります。
日本にこのような大学、大学管理者、経営者は、一人も居ない事が残念であり、また、日本の大学教育が実践に適さない机上の空論的な授業を行う教員達を多く見かけます。しかし、これらも文科省、スポーツ庁、等のお上のアドミニストレイションが、実践的でない指導、運営、管理を形式的に伝達している証でもあると思われても仕方あるまい。
戦後日本の体育教員、指導者は、大学に於いて文科省(旧文部省)認定の保健体育なる教員資格が与えられています。しかし、ここで重大な問題が生じている事に誰もが気付かず、今日を迎え多くの誤解と混乱をきたしているのです。
これは、国立私立を問わず近年大学教育機関に於いては体育学部、スポーツ健康学部、スポーツ科学部、等々のあらゆる名称が自由に付けられているのを皆様もご承知の通りであります。
米国の大学に於いては、Physical Education (省略してPE、体育の意味)の名称で親しまれて参りました。また、日本に於いては、体育学部、体育学科の名称で今日もなお多くの大学で親しまれて参った大学内の学部、学科名称でありました。しかし、確か米国に於いては、長らく使用されて来たこのPEなる名称がある時期(1980年代後半から)から、従来体育の分野の中のリクリエイション・スポーツ、スポーツ・サイエンス、スポーツ・メディスン、スポーツ・バイオメカニック、スポーツ・サイコロジー、スポーツ・アドミニストレイション、スポーツ・フィジオロジー、等々とスポーツの名称を付け専門分野、部門名がPEの内部から分離独立する動きに変革なって参りました。これらの学問の中枢を形成している根源は、「体育ではなくスポーツを自然科学と人文科学にその基礎を置いている事」が表面化して参りました。
このような動きが全米の大学の特に体育学部の名門大学として長年牽引して参られたオレゴン大学に於いて改善、改革が進められたような記憶が蘇ってまいります。
日本に於きましては、この米国大学の動きから約15~20年後に日本の私立大学から体育学部、体育学科、等が姿を消し始めて行ったのではないでしょうか。これは、また丁度1970年前後に米国に於いて「エアロビクス運動」なる運動生理学を視点にした新しいスポーツ医科学の夜明けと称された時期がこの起点となったようにも著者は、感じています。このエアロビクス運動の創始者は、Dr.ケニス・クーパー氏と妻のMrs.クーパー氏により開発された論理的且つ、実践的な有酸素の身体運動です。丁度著者は、米国の大学院でDr.クーパー氏から学んだこの理論はその後の私の人生を大きく左右した出来事であったことを記憶致しております。
■教育科目の一つとしての体育
近年体育は、伝統的な日本の教育科目の名称の殻から抜け出し、個々の名称が独り歩き始め、瞬く間に拡大して行ったように記憶していますが如何でしょうか。しかし、今日もなお体育の名称を大学の看板、学部の看板としている私学が残されているのは、看板を取り外そうとしても外せない理由がそこには根強くあるのも事実でしょう。
特に体育大学名を長年背負ってきた大学(日本体育大学、東京女子体育大学、日本女子体育大学、大阪体育大学、他)、体育学部を存続させている大学(東海大学、順天堂大学、他)と学内に於いて矛盾したアドミニストレイションをやらざるを得ない紛れもない実態がそこにあるのも事実です。この事は、米国大学の名称を形だけ取り入れても大学教育機関の本質的な問題を変革しないで、姿、形だけに拘る日本の大学教育機関の実態、即ち矛盾を解決しないで名称にのみ拘るがための姿であることを忘れてはならないと思われます。
例えば、日本体育大学は、一昔前までは英訳してNippon Physical
Education College (NPEC)を公称とされていましたが、これは身の丈に合った誠実で正直な公称です。
つい近年谷釜了正学長なる人物は、学長の見栄で当時の英語の教員(明治学院大出身者)に「何か英語の名称を作ってくれ、俺は英語がにがてなので、とかで」との指示があったので英語教員が「Nippon Sport Science University」と書いて手渡したという。この学長は、Collegeではなんだか専門学校的で格好悪いのでUniversityと付けたかったという事であったのかも知れません。あるいは、このお方は、自身の学長時代に歴史に残ることを優先したかったのかもしれません。谷釜氏の専門が体育歴史であったいうので、お粗末極まりない体育史家であったと言われても仕方あるまい。そして、此のことについて学内教授会に於いては、何の設置検討委員会も設けず学長、理事長、理事会に於いても議論もなされず黙認されたと聞き及ぶにつけて、何と軽率で浅はかな大学、指導、運営、経営、管理集団なのだろうとあきれ果てたのは、著者だけではなかったようです。
日本国内の大学では、米国に遅れる事約20年後に学部、学科に於いて体育を外してスポーツ・サイエンス学部、スポーツ・ヘルスサイエンス学部、学科、また、スポーツ・人間学部、等々と我も我もと体育を取り外す方向に走り出したのです。これも米国大学の模倣であったのです。
ただこのように日本体育大学は、伝統的な看板も下ろせず、取ってつけたようなNippon
Sport Science Universityなる、全く整合性のない中途半端な大学名称を使用している大学もあることを読者の皆様も気付かれているかも知れません。これは、また日本のマスメディア、体育学会、文科省庁がNCAA(全米大学競技スポーツ協会)を全米大学体育協会と今も昔も訳語を間違えて告知するマスメディア記者達のいい加減さと同類のように著者には思えてならないのです。
■体育教員資格者とは
一般的に、わが国の体育教員導者は、国立、私立を問わず戦後保健体育指導者資格なるものが大学教育機関の設置認可された体育学部、後に健康学部、保健体育科、等々なる名称のある学部を卒業した学生達に略自動的に保健体育第1種、2種免許なるものが付与されます。第1種免許は、国立大の保健体育資格を得た学生達に付与されます。第2種免許は、私立大の保健体育資格を得た学生たちに付与されます。この1種、2種の大きな違いは、1種を持たなければ小学校の保健体育の教員指導者にはなれないのです。何故?
戦後この様な教員資格が何故差別化されたのかは、今日迄誰もが議論、討議もされず、改まっていないのが実状です。国立大卒の保健体育教員と私立大卒の学生にどのような違いがあるのでしょうか。確かに、日本の私大は、個々の大学への受験性、指導者には大きな格差がある事は否めません。この格差、即ち学生の資質と大学教員の資質の差は、今も昔も同じであるのは大学設置基準と認可を与える旧文部省、現文科省の大きな指導、運営、管理から来る大罪と言われても仕方あるまい。どんな大学にも学業が優秀で人としてのバランスの取れた学生達が居ることは、著者の日本の大学の教壇に立っての体験から確認しました。しかし、格差の上下は、この優秀でバランスの取れた学生達の数により評価されている事は間違いないことのようです。
この大学のアカデミックな格差は、個々の私大の大学管理者、教員、大学経営者の資質に直結している為にこの格差は無くならないのも事実です。この格差を是正するのが文科省の使命ですが、文科省の文教族なる国会議員の利得、利権の私物化が改まらない限り、日本の私大から格差の是正は望み薄と客観的にお見受けいたしております。この様な根拠を元に、体育なる分野のプレスティージは、今日も低く見くびられている所以が此処にあると思わざるを得ないのです。
この評価基準は、日本だけでなく万国共通の負の遺産のように思えてなりません。著者は、日本国での教育を受け、米国の教育を受け両国に於いて大学教育機関と一般社会の企業で実践経験、体験して参りまさした。米国に於いても、よく大学内、社会で大学、学部名、専門職務を聞かれます。その時、私は、「体育」と口を開いた後、相手の顔を拝見していると人を見下したような反応がよく見受けられます。勿論そうでない人達も多くいますが、その大多数は、心の中で軽く見ている様子が感じられます。読者の皆様の中にも経験者、体験者がいらっしゃるのではないでしょうか。
日本国内では、如何でしょうか。著者が語るより読者の皆様は、既にイメージをお持ちでないですか。
Ⅱ.混同されている体育、スポーツと競技スポーツ
■混同される所以は此処にあり
体育、スポーツと競技スポーツが一般的に社会に於いて混同した理解をされています。著者の視点は、これらの共通する課題が「身体に負荷」を加味している事にあると思います。しかし、この身体への負荷の質と量により、それぞれの目的が異なる事であります。
著者は、体育と競技スポーツは対極にありと申し上げています。その根拠は、体育が人の健康の維持、向上を目的とするのに対して競技スポーツは身体、精神、技術をパフォーマンスを通して誰が一番かを各競技種目に於いて競い合うことにあります。このことから競技スポーツに於ける選手(アスリート)は、常に限界を求めるがために怪我、障害、事故のハイリスクが伴うのです。これは、まさに体育の健康の維持と向上とは真逆なのです。
これにより体育と競技スポーツは、論理的に於いても盾と矛の関係であることを読者の皆様は理解して頂けたでしょうか。このことから、体育の教員・指導者が競技スポーツの指導を兼務するのは、如何なものかと申し上げたのが理解して頂けたのではないでしょうか。
これを機会に業界、社会でよく耳にする言葉をしっかりと理解して頂くことでより親しみと理解を深められると思われます。
先ず、競技スポーツに於けるアスレティックとコンペティションの違いをご存知でしたでしょうか。
■アスレティック(Athletic)は、「スポーツや身体活動に関連することを意味し、特定の身体能力や身体活動」を指します。
■コンペティション(Competition)は、「個人またはチーム間の競争や対抗を意味する言葉ですが、スポーツに限らず、ビジネスなどあらゆる分野での競争に使われる」用語であります。
■アスレティックコンペティションは、「スポーツや身体活動においてアスリート同士が競い合うイベント」を指します。また、一般的には、「運動能力に優れた人々(アスリート)が、特定のスポーツや種目で誰が一番優れているかを競う場」を指します。例:オリンピックは世界最大のAthletic Competitionです。
このことをまさに国民、社会では、「体育と競技スポーツ」を混同してしまった根源で根拠が此処にあるのです。五輪は、体育を潰してしまいました。
まとめ
ここでこの度のまとめを述べさせていただきます。
体育とは、人の健康を目的として教育的な視点で捉えるのに対して、スポーツは、自発的な身体運動を基盤としてパフォーマンスを持って表現する楽しみながらの身体活動です。
これらに対して競技スポーツは、個々のアスリートの身体能力、精神能力、各競技種目の技術力を最大限発揮する為、個々のパフォーマンスを持って、相手と競い合い誰が一番かを決めることを目的としている事です。
読者の皆様には、分かりやすく理解できましたでしょうか。また、機会がありましたらもっと深くキーを上げて専門的な知見で述べさせていただきます。
文責 河田弘道
スポーツ・アドミニストレイター
スポーツ特使(Emissary of the Sports)
紹介:G-File「長嶋茂雄と黒衣の参謀」発行 文藝春秋社 著 武田頼政
本著は、2006年10月13日発売、翌年完売の為現在はAmazonで中古オークションで入手可能。河田弘道の西武・国土計画、東京読売巨人軍での激闘の日々のドキュメントです。登場人物は、全て実名です。
Kファイル、KファイルNews Comment by Hiromichi Kawada
お知らせ:この度のKファイルは、体育、スポーツ、競技スポーツの本質的な相違と体育教育に携わる教員、指導者は、競技スポーツの指導、コーチは盾と矛の関係なので止めるべし、と提案させて頂きました。
本年もいよいよ師走が足音を立てて近づいて参っています。此処米国では、今週はThanksgiving
week(感謝祭の週)で子供達は朝寝坊をして、一日を個性豊かに過ごす週でお休みです。特に社会では、物価高をもろに受けBlack FridayなるBigセイルを掲げ値引き合戦の最中です。健康第一に師走を迎えて下さい。

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